継ぐ・継がないを超えて、農業を“選び直す”時代へ。地域の未来を切り拓く、ひらくの里ファーム青木さんの挑戦

米どころ、新潟県南魚沼市で生まれ、兼業農家を営むご家族のもとで育ちながら、「農家になる」という選択肢は、かつてまったく持っていなかった——。
ひらくの里ファーム株式会社 代表取締役・青木拓也さんの原点は、海外の飢餓や食糧問題への関心でした。途上国を訪れた経験をきっかけに、「日本の農業を何も語れない自分」に気づいたことが、やがて地元へと向き合う転機になります。
Uターン後は研修を経て独立し、2017年に法人化。地域とともに農業を続ける仕組みづくりに取り組んできました。
なぜ農家になるつもりがなかったのか。
なぜ、それでも農業を選んだのか。
青木さんの歩みを通して、農業と地域の未来を自分ごととして考えます。

「農家になる気はなかった」自分が、世界へ飛び出すまで
──青木さんは、もともとご実家が兼業農家をされていたそうですね。
うちは祖父がやっていた小さな兼業農家で、いわゆる「三ちゃん農家」みたいな感じだったんです。平日は別の仕事があって、土日に親が手伝う、というような形ですね。将来的に僕に対して農業をやってほしい、みたいな話も特になくて。だから、「農家になろう」という意識は本当にまったくなかったし、正直なところ農業に対する興味関心もほとんどなかったです。
小中高校生時代は地元で過ごし、普通の学生でした。高校は進学校だったので、自然と大学進学を考える流れで。そのときに選んだのが東京農業大学なんですけど、この時も「農業をやりたい」というよりは、食料問題や飢餓、貧困といったテーマへの問題意識があったからでした。
──そのあたりに興味を持たれた原体験のようなものはあったのでしょうか。
原体験というほど大きな出来事があったわけではないんですけど……テレビや学校の授業で見聞きした情報がきっかけですね。
当時、世界の人口が60億人で、そのうちの6分の1とか4分の1が飢餓状態にある、みたいな話を聞いて。「それって本当なのかな?」という疑問がまずあって。
自分が置かれている環境とはまったく違う世界で、本当に困っている人たちがいるということを知って、だったら一度その世界に飛び込んでみて、何ができるのか模索してみたい、という気持ちが芽生えました。
進学時に国際農業開発学科を選んだのも、海外に出てみたいという気持ちがあったからです。日本は恵まれていると思う一方で、写真や動画で見る海外の映像はまったく違う世界に見えて。「実際に自分の目で見てみたい」という思いがあって、進学しました。
──大学在学中にはタイやバングラデシュなど、さまざまな国を訪れたそうですね。
そうですね。東京農業大学の開発学科って、結構ぶっ飛んだ人が多いんですよ。入学したら「とりあえずインド行く。で、ガンジス川に飛び込む」みたいな、そんなノリの人たちがいて。
自分はずっと田舎で育ってきて、そういうタイプの人と触れ合ったことがなかったんですよね。どちらかというと普通の家庭で、将来も農協職員とか市役所とか、いわゆる安定した道を選ぶんだろうな、くらいにしか考えていなかった。
でも大学で初めてそういう友達に出会って、「このままでいいのかな」って思ったんです。
大学の長期休暇中に海外から帰ってきた友だちが、飲みながらすごい話をする。そんな姿を見て、なんだかモヤモヤして。自分も飛び出してみようと思ったんです。
それで20歳のときにバックパック一つでタイに行きました。有機農業をやっているところがあって、1か月くらいボランティアとして滞在したんです。


──タイでの滞在中、特に印象に残っている出来事はありますか?
一番は、季節の違いですね。日本は春夏秋冬があって、自分の地元は雪も降るし、冬は真っ白で本当にきれいなんです。
でも東南アジアは乾季と雨季しかなく、乾季は特に作物を作るのが難しい。しかも水路や施設も整っていない場所が多いんです。日本では用水路を整備してきた歴史がありますけど、海外では維持する組織がなくて、数年で壊れてしまうこともある。
日本は、用水路など、地域での営みを維持する組織や仕組みがあるからこそ成り立っていることにも気付かされました。でもそれが高齢化でだんだん維持できなくなってきている。そこに対して、どうなんだろう、このままで大丈夫なのかな、という思いも強くなりました。
それと、現地で日本のことや日本の農業について聞かれた時、自分は全然知らなくて、ほとんど答えられなかった。それがすごく恥ずかしかったですね。このままじゃだめだと思って、帰国してからはファームステイやアルバイトのかたちで日本国内の農家さんをまわるようになりました。
“とりあえず米があれば大丈夫”という安心感と、じいちゃんのすごさ
──海外に出たことで、日本の農業にも関心を持たれるようになったんですね。
北海道から沖縄まで、全国各地の農家さんを20箇所ほどまわるなかで、地方で輝いている農家さんや、地域おこしに取り組んでいる人たちに出会いました。それで、「農業を目指してみようかな」という気持ちになっていきました。
大学4年になる直前、就職活動のタイミングで東日本大震災があったのも、転機になりましたね。
震災があった時、自分は東京で一人暮らしをしていたんですけど、大学が春休みだったこともあり、周りとのつながりも薄くて、不安で。どうなるんだろうっていう状況の中で、祖父がお米を送ってくれたんです。「とりあえず米があれば大丈夫だろ」って。
それが本当にありがたくて。衣食住って言うけれど、やっぱり“食”って人間にとってすごく大事なことなんだって実感しました。そして、それを作っている祖父がすごいな、と改めて思った。
父はサラリーマンで、農業は手伝う程度。継ぐつもりもない、と聞いていました。でも、このままでいいのかな、と。じいちゃんの後を継ぐのが自分の使命、とまでは言わないけど……そういう役割なのかなって思うようになりました。
就活の説明会にも何度か行きましたけど、途中でやめました。みんなエントリーシートだ一次面接だって話をしている中で、その道を外れているという不安はありました。でも、やっぱり自分のやりたいことに素直になろうと思った。今振り返れば、それでよかったなと思っています。

「農業は儲からない」を変えたかった
──大学卒業後地元に戻られてからは、2年間、近くの農業法人で研修をされたと伺いました。本当に基礎から学ぶところからのスタートだったんですか。
そうですね。うちは2ヘクタールくらいしかなくて、それだけでは生活できる規模じゃなかった。技術的にもまだまだだったので、やっぱり一度は基礎からしっかり学ぼうと。
それで近くの大規模な法人に2年間お世話になりました。1年目はとにかく必死で、2年目から少しずつ田んぼを任せてもらえるようになりました。そうやって任せてくれる人がいたことで、自分もやれるかもしれないと思えた。並行して自分の田んぼもやっていて、研修を終えて、3年目には4〜5ヘクタールくらいまで広がっていった感じですね。
──一歩ずつステップを踏みながら、20代前半を過ごしていったんですね。
田舎は少し閉鎖的なところもあるので、地域の飲み会に出たり、田んぼをちゃんと管理している姿を見せたり、信頼してもらえるように動いていました。一度外に出た若手という立場もあったので、受け入れてもらえるように意識していました。
でも当時は、とにかく楽しかったですね。苦労もあったはずなんですけど、あまり覚えていなくて。
朝4時半に起きて自分の田んぼを見て回って、8時から17時までは研修先で働いて、帰ってまた自分の田んぼを見る。ずっと外にいました。でもそれが楽しかった。
研修先と自分の田んぼを比べながら、試行錯誤するのが面白くて。自分は職人っぽいところがある性格なので、こだわりながら作るのがすごく合っていたんだと思います。

──そこから法人化に踏み切られたわけですが、その背景や思いを教えてください。
個人農家として3年ほどやっていましたが、周りがどんどん辞めていく状況を見て、このままでは立ち行かなくなると感じました。規模を広げていたのもありますし、どうしても一人では限界があるなと。担い手不足や「農業は儲からない」というイメージを変えたい、という思いも大きかったですね。
法人化の1年前から、辞めそうな人や地主さん、担い手がいないと悩んでいる人たちと何度も話し合いを重ねました。最終的に15人ほど出資者が集まり、地主さんや現場で作業している方も加わってくれました。
これまでいろんな地域を見てきた中で、「地域を大事にしないと続かない」という思いも強かったので、法人化して組織でやろうと決めました。
農業を誇れる仕事にするために
──その思いを抱くようになったきっかけも、ぜひ聞かせてください。
静岡県の島田市、伊久美(いくみ)地区っていう、すごく山奥の地域なんですけど。中心街から車で1時間、そこからさらに1時間くらい山に入ったところに集落があって。もともと3、4軒しかなかったんですが、最後に残っていた清水さんという方との出会いが、今の自分に大きな影響を与えていますね。
清水さんはそこでヤマメの釣り堀をつくって、年間5万人くらい観光客を呼んでいるんです。お茶が主産業の地域なんですが、加工体験施設もつくって、地域振興にも取り組んでいて。
正直、立地条件はめちゃくちゃ不利ですよね。「こんなところ出ていこう」ってなってもおかしくないと思う。でも清水さんは、「ここだからこそ来る価値があるんだ」と、立地を逆に活かしていた。
しかも自分の事業だけじゃなく、地域全体のために法人を立ち上げて代表になって、みんなが活性化できる仕組みをつくっているんです。「人のために尽くす」という姿勢が本当にすごいなと思いました。
──今、青木さんが地元で法人化をして、その土地ならではの可能性を最大化しようとしている姿は、まさにその方がロールモデルになっているようにも感じます。現在は、どれくらいの規模で運営されているんですか。
自分を含めて正社員が5人、パート・アルバイトが2〜3人という体制です。
法人を立ち上げた当初は、まだ8ヘクタールほどでした。それだと規模としても小さいし、十分な給料を払うのも難しい。だからまずは、とにかく規模を広げることが必要でした。
ライスセンターの設立や作業受託も、積極的に取り組みました。「乾燥調整だけでもやらせてください」というところから広げていった形です。並行して少しずつ自分たちの田んぼの面積も増やして、今は40ヘクタールほどになりました。「農業=儲からない」というイメージをどう変えていくか。そこは経営として、いろいろ手を打ってきた部分でもあります。
法人化したことで、就労環境についてもより一層考えるようになりましたね。今は日曜日は必ず休み、繁忙期以外は土日祝も休みで、年間105日以上は休日を確保しています。天候に左右される仕事なので正直、調整は大変です。一人だったら日曜もやればいいか、で済むところを、「日曜に休むために平日どう組み立てるか」を考えるのが経営だなと。
でも、なんとか工夫して利益が大きく上がった年はボーナスも出せましたし、社員旅行に行けたりもしました。それでみんなに喜んでもらえると、やってよかったなと思いますね。

安さか、つながりと安心感か——消費者に問いたいこと
──米づくりの現場から見て、今、消費者を取り巻く状況にどんな課題を感じていますか。
最近で言うと、情報ですね。米騒動のときも、いろんな情報が飛び交って、誇張された表現も多かった。
食べ物を作っている側からすると、毎年ちゃんと作っているし、全部なくなるなんてことは基本的にないんです。農協や卸、スーパーもそれぞれ努力して流通を回している。それなのに、編集のされ方や切り取り方次第で、不安だけが強調されてしまう。
備蓄米に何時間も並ぶ光景もありましたよね。数千円安く買うために長時間並ぶ。もちろん不安があるからだと思いますが、生産者側との認識のズレは大きいと感じました。
メディアもSNSも、インプレッションを稼ぐ構造があります。数字が取れるものが優先される。普段と違う状態を誇張したほうが注目される。それ自体が悪いわけではないけれど、受け取る側も冷静である必要があると思います。
だからこそ、その間を埋める発信はしていきたいですね。大きなメディアの言葉ひとつで過度に振り回されないように。

──昨今、お米に対する関心が高まるなかで、消費者に向けて伝えたいことはありますか?
お米に限ったことではありませんが、「とにかく一番安いものを探す生活」と、「少し高くても生産者や産地とつながり、安定して食を確保する生活」、どちらを選ぶのかは考えてもいいと思います。もちろんいろんな生活状況の方がいるので、どちらが正しいとは言えませんが。最近の騒動は、そういうことを考える機会になったと思います。
そのためにも僕らは正しい情報を発信していきたいですし、消費者も情報を見極める力を持つことが大事だと思います。
主食は、安定して供給されるべきだと考えています。今回の騒動も、需給の読み違いが背景にあったとされていますが、ここまで不安が広がるのかと驚きました。
だから僕たち生産者としては、余るくらい作れる体制を維持することが大事なんじゃないかと。もともと飢餓や貧困に関心があったのもあって、食べ物がなくて困る人が出る社会にはなってほしくないんです。
そのためにも、農業における雇用環境と働き方の改革を、もっと進めていきたいです。スタッフにしっかり還元して、新しい人材にも投資していく。人が一人前になるまでには時間もお金もかかるので、そこにちゃんと向き合いたい。
安定生産できる技術と体制を整えながら、「農業は大事な仕事なんだ」と、胸を張って言える状態をつくりたいですね。
田舎だと「大学まで出たのに農業?」と言われることもあります。でも、大学まで行ったからこそ農業をやる意味があると思っている。農業を誇れる仕事にしたいし、働く従業員にも誇りを持ってほしい。そんな未来にしていきたいと思っています。

地元を離れたことも、世界を見たことも、遠回りに見えた時間も、すべてが今の決断につながっている。
農業は、ただ「継ぐ」ものではない。
自分の意思で「選び直す」ことができる仕事だと、青木さんは自らの歩みで示しています。
外に出て、迷い、問い直したうえで、それでも戻ると決める。
そのプロセスこそが、これからの農業のかたちをつくっていく。
そしてそれは、作り手だけの問題ではありません。
安さを選ぶのか、安心を選ぶのか。
流れてくる情報をただ受け取り、振り回されるのではなく、何を基準に食を選ぶのかを決めるのは、私たち消費者一人ひとりです。
「継ぐ/継がない」という二択を超えて、どう関わるかを選び取ること。
青木さんの選択は、作り手の覚悟であると同時に、受け手である私たちへの問いかけでもあります。
その選択の積み重ねが、日本の農業の未来をかたちづくっていくのかもしれません。
取材: 貝津美里(ソラミドごはん編集部)
執筆: 笹沼杏佳(ソラミドごはん編集部)
写真提供: ひらくの里ファーム
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